【オモシロ史実】滝沢馬琴は当時のエロ本屋で働いていた!





「和歌、短歌、俳句、川柳、狂歌」などでアダルトな内容を含めたものは「笑句、艶句、破礼句」などと呼ばれ、安永5年(1776年頃)にはそれらを集めた「誹風末摘花」が刊行され、江戸時代の庶民の間では、「笑句、艶句、破礼句」を詠んで競い合うなど日本文化としての流行が伺える。

有名な童謡である「ずいずいずっころばし」や童話の「十五夜の月の兎」なども、元々はエロな意味合いで伝えられてきた文化である。(注:諸説あり)




日本で歴史的なエロ雑誌、助平本が出版されるようになった背景としては、安永4年(1775年頃)、当時の風俗事情はとても乱れていたので、衛生状況が悪く性病が流行していた。そこで、鱗形屋孫兵衛という人物が風俗を整備するために『吉原細見』という江戸の吉原遊郭についてのガイドブック出版することになりその販売権を独占していた。

つまり、助平本は乱れた社会を整備することを目的として刊行されたのである。

しかし、鱗形屋孫兵衛は身内の不祥事などで経営が立ち行かなくなり、当時、新吉原五十間道の吉原大門側で本屋を営んでいた蔦谷重三郎という人物が吉原細見の版権を買い取ることになる。




蔦屋重三郎は吉原細見の版権を買い取ると、狂歌・戯作壇の連中などと次第に親交を深めていった。その頃、戯作者を目指していた滝沢馬琴も蔦屋重三郎に手伝いとして雇われていたと記されている。そして、蔦屋重三郎は出版の内容を次第に拡大して行き、現在の日本最大手であるレンタルビデオチェーン店ツタヤとして発展して行ったのである。

因みに、滝沢馬琴は若い頃、重い性病にかかり死にかけたと伝えられており、曲亭馬琴(※)という作家名は、遊郭でまじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男という意味である「くるわでまこと」と読むこともできる。

※江戸時代の芸術家は幾つも名前を使用していたのが一般的で、曲亭馬琴(きょくていばきん)は滝沢馬琴の正式作家名のひとつ。

参考・吾仏乃記・馬琴日記・ウィキペディア

(前世滝沢馬琴 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

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