ひかる一平は、かつてジャニーズ事務所に所属していたアイドル歌手である。俳優としての肩書も持ち、現在は、俳優養成事務所「スカイアイ・プロデュース」の代表を務めている。
1979年、姉がジャニーズ事務所に履歴書を送ったことがきっかけで芸能界入り。彼の芸名はメリー喜多川から命名されることとなった。
デビューとしては俳優業の方が早く、1980年にドラマ『3年B組金八先生』にて俳優デビューを果たし、翌年の1981年に『青空オンリー・ユー』にて歌手デビューをした。
同期にはマッチこと近藤真彦がおり、近藤に対しては「別格」「常に僕の中で抜けている」と高く評価している。「第8回FNS歌謡祭」(1981)にて、ひかるは最優秀新人賞候補にノミネートされたこともあったが、この時の受賞は近藤真彦となった。このことも、ひかるの中での近藤との格の差を思い知らされた場になったのかもしれない。
1985年、ひかるはジャニーズ事務所を退所、わずか数年のアイドル活動を終えることになる。
この理由については、俳優業に専念するためということも言われているが、アイドル歌手としては歌と踊りがそれほど得意ではなかったという事情もあると言われている。
またアイドル歌手として活動していたころは、食費や洋服代といったものは常にマネージャー持ちで給料を1円も使わず、また彼専用の移動車が用意されるという好待遇であった。そうした中で、彼は天狗となってしまい、礼儀やコミュニケーションが悪化してしまい、テレビ出演も激減していってしまったという。
そんな彼が、自身の態度を省みるきっかけとなったのは『必殺仕事人III』(1982)でのこと。10代の役者が相手を殺害するという仕事人を演じるのはいかがなものかという批判もなされたものの、そのコミカルな役柄が、本シリーズをより魅力的な作品にするきっかけにも繋がったと言われる。
その「III」撮影でのこと、軽い気持ちで撮影に臨んでいたひかるは、台本をなかなか覚えずにNGを立て続けに連発してしまった。これによって周りの人々からの風当たりが強くなってしまった。中には、作中で彼の演じる西順之助を死亡させてひかるを降板させようという声すらあったという。
こうしたことから、彼は自身の素行を改めるようになり、のちの仕事人シリーズ出演の際には、マネージャー無しで現場入りするなどしていたという。
そうして事務所退所後、ひかるは子役を養成するプロダクションにて9年間に渡り講師をつとめたが、これは自身のいわばしくじりをベースに、真っ当な人間としても役者としても新人を育成しようという意志もあったようである。
一説によれば、このころ3歳の子役・芦田愛菜の演技指導をしていたこともあったようであり、そのためひかる一平は芦田愛菜の師匠と称され紹介されることもあるという。
【参考記事・文献】
・https://asuneta.com/archives/62577
・https://ameblo.jp/poohta8/entry-12835776078.html
・https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13242446958
・https://dic.pixiv.net/a/%E3%81%B2%E3%81%8B%E3%82%8B%E4%B8%80%E5%B9%B3
・https://www.daily.co.jp/gossip/2020/11/18/0013873641.shtml
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