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【暗闇の日本史】恨み数百年…維新戦争は関ケ原で敗れた者たちの再戦

 21世紀の現代においてさえ、いまだに山口県(長州藩)の人間と会津若松の人間との婚姻は高齢者の身内から良い顔をされないという。戊辰戦争から約150年経ったにも拘わらず、その恨みは骨髄の深部にまで達しているのであろう。

2007年4月14日には、長州藩の末裔である安倍晋三首相が福島県会津若松市における参院福島補選の応援演説の中で「先輩がご迷惑を(会津に)おかけしたことをお詫びしなければならない」と謝罪の言葉を述べている。この言葉に対して当時の元会津若松市長・早川広中氏は、「よく言ってくれたと思った」とコメントを出した。本当に21世紀の出来事なのか、明治の話ではないかと不安になってくるが、これが現実なのだ。人間の恨みとは簡単には忘れられないものなのだ。



 天下分け目の合戦である。関ヶ原の戦いでも多くの遺恨や恨みが生じている。この合戦において毛利輝元は西軍の総大将と祀り上げられてしまった。この戦にあたり、お家の安泰を図るため一族衆の吉川広家は東軍に通じており、「毛利の領地は安泰」という約束を家康の側近・吉川広家から得ていた。

 だが、西軍の敗戦処理において、家康は約束を反故にして、中国八カ国120万石に及んだ毛利の領地を防長二州(周防すおう・長門ながと)30万石(当時)にしてしまった。この査定に吉川広家は抗議したが、家康から直接確約をとっていないため、聞き入れてはもらえなかった。

 この処置は毛利家に徳川憎しの遺恨を残すこととなり、その恨みは幕末の動乱へと数百年もかけて繋がっていく。因みに毛利家では毎年正月に「殿、今年は徳川を討たれますか?」という家臣の問いかけに、藩主が「まだ時期尚早だ」と答えるのが恒例であった。




 また、島津氏率いる薩摩藩も、関ケ原では徳川に対し遺恨を残す形になった。慶長5年(1600年)の関ケ原の合戦の際に、薩摩の島津義弘はたったの1500の軍勢であった。60万石の所領から考えると一万人ぐらいの軍勢は動員出来たはずである。家臣の内乱や一族内での不一致もあり、この程度の軍勢しか用意できなかったのだ。

 しかも、当初は東軍に参加しようとしていたが二条城内の徳川の家臣鳥居元忠に「助太刀無用」との言葉をうけ、いや応なしに西軍に加わることになった。関ケ原での西軍敗北の動きが見えた段階で島津勢は戦場の中央突破を図り、命からがら逃げかえり1500人の人数が最後は80人ぐらいになっていた程の惨状であった。

 だが、島津は領地が減らされるどころか、琉球貿易の窓口という立場も容認された。この甘い処分の理由は、島津側の粘り強い交渉術や特殊な南方地域の管理を島津に継続させたかったという徳川幕府の意向が反映された結果である。だが、島津側に根深い徳川への不信感が生まれたのも事実であった。

 悲惨なのは長宗我部である。当初、長宗我部盛親は東軍に参加しようと考えていたが、近江国水口で西軍の長束正家に阻まれてしまい、説得されてしまい仕方なく西軍に加わってしまう。関ケ原では主力で奮戦するが、結果的にお家は取り潰しになってしまった。その理由としては家臣の讒言を信じ、長宗我部盛親が兄である津野親忠を殺害したためだと言われている。その後長宗我部の家臣たちは郷士となり、徳川への恨みを蓄積していく。

 こうして毛利(長州藩)、島津(薩摩藩)、長宗我部(土佐藩・郷士)たちが恨みを積み重ねながら、幕末に江戸幕府を倒す倒幕運動に繋がっていく。つまり、幕末に起きた戊辰戦争とは関ケ原のリターンマッチだったのだ。

(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

関ヶ原の戦い 戊辰戦争