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【東京妖怪伝説】須佐之男命と浅草の牛御前

 僕は時々浅草を散歩するのを趣味にしています。ふらふらと仲見世を歩き、言問橋を渡ると、古びた神社があるのです。本所一帯の総鎮守とも言われた牛嶋神社がそれなんですね。僕は、このややくすんだムードが大好きなんです。貞観二(860)年創建の古社であり、江戸っ子の守護神のひとつとも言える神社ですが、元々は須佐之男命を、主宰神に迎えたのが始まりだと言われています。関東大震災後の隅田堤の護岸工事により500m移動しただけで、当時のムードを程良く残しているからたまりません。

 牛御前社 の祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)ですが、スサノオは時々牛頭天王(ごず てんのう)と表裏一体の関係とも言われます。まあこれは明治以降の神仏分離の影響を大いに受けているようですが、スサノオ・牛頭天王に更に牛御前が被さった経過には次のような由来があります。




 慈覚大師が付近を旅の途中に通りかかったとき、不思議な老翁が現れ「師わが為に一宇の神社を建立せよ。若し国土の悩乱あらば、牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わして、天下の安全の守護たらん」と告げたというのです。それが牛御前社と称した始まりだそうです。更に明治になってから、今の呼び名「牛島神社」になりました。

 現実的には、天武天皇の時代(701~764)に両国~向島一帯が牛の国営牧場として運営されており、さらに天保元年(701)には浮島牛牧と呼ばれるようになった為、このエリアが牛のイメージで語られた点にあるとも言われています。現代で言うと「北海道=牛乳」というイメージでしょうか(笑)。 狛犬の替わりに鎮座するのは、通称「撫で牛」で、自分の体の悪いところを撫でると、病気や怪我が治ると言われています。ところどころ「撫で牛」の「撫でられた場所」が黒光りしているのが見受けられます。

 なお「牛御前伝説」は室町時代あたりの古浄瑠璃を媒体に盛んに語られました。平安時代の武士に源満仲というものがおり、この男にまるで牛のような顔をした娘が生まれ、牛御前と呼ばれたそうです。まるでギリシア神話のミノタウルスみたいですね。父の満仲はこの娘をとても嫌い、須崎という女官に殺すように命じました。しかし、須崎は娘を哀れに思い、山中で密かに育てたのです。

 牛御前は山ですさまじい力をもち、すくすくと育ちました。ですが、ひょんな事から娘の生存を知った父は激怒し、息子であり、牛御前の兄弟でもある源頼光に退治するように命じます。源頼光はご存じ平安時代のゴーストバスターズでありまして、名高い酒呑童子や土蜘蛛を滅ぼした猛者であります。頼光は及び配下の「四天王」(渡辺綱、坂田金時、他)は、牛御前を追って関東に攻め入りました。




 しかし、牛御前と同じように山で山姥に育てられた金太郎こと、坂田金時は牛御前に同情します。つまり、共感したんでしょうね。しかし無情にも牛御前は攻められ、追い込まれ、隅田川に身投げをするのです。そして、身の丈十丈の牛鬼へと変身し、頼光軍に戦いを挑むのです。

 このように牛鬼は大変人々に恐れられてました。「枕草子」に書かれている窮鬼 (いきすだま)が牛鬼にあたると解釈するむきもあるみたいです。何度か、浅草には牛鬼は出没しているようです。今も牛嶋神社には「牛鬼が落としていった玉」があると伝えられています。まあ散歩をしながら、僕は牛が隅田川の水中から飛び出すファンキーなシーンを想像し、しばし日々の疲れをとる。たまにはそんな幻想的な日もあってもいいでしょう(笑)。

(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

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