幕末の剣豪・千葉周作と忠左衛門・医と武の親子愛

千葉周作と言えば、幕末の剣豪である。
 当時、江戸の三大道場と言えば、「位」の士学館(桃井春蔵の鏡心明智流)、「力」の「練兵館(斎藤弥九郎の神道無念流)、「技」の玄武館(千葉周作の北辰一刀流)が評判で、大変な人気道場であった。

 この千葉周作、名前を見てもわかるように本県縁りの千葉氏の末裔である。戦国以降、千葉一族の子孫たちは東北各地に点在した。寛政6年(1794)獣医・千葉忠左衛門の次男として周作は生を受けた。幼名を於莵松という。『前夜』という文書によると、岩手県陸前高田市での出生とされているが、他にも宮城県花山村、宮城県古河市の2カ所にも出生伝説があり、定かではない。



 父・千葉忠左衛門(忠衛門、幸右衛門とも呼ばれる)も指南役に押される程の剣客であったが、馬の医師という道を選んでいる。父は獣医の傍ら、千葉家伝来の「北辰夢想流」を周作に教えたという。この剣法は、相馬藩剣術師範であった周作の祖父・千葉吉之丞が創成したものらしい。

 その後、父に連れられ一家は松戸に移住し、獣医師を開業した。一方、周作は弟定吉と共に小野派一刀流の浅利又七郎の道場に通い、浅利の師匠である中西道場にも通った。(一部の資料によると、同時に二道場に通ったというからもの凄い練習量である)更に、旗本・喜多村石見守正秀の家臣として仕えたのだから、さぞや充実した日々であったと思える。

後に師匠・浅利の姪と結婚し、浅利道場の跡継ぎになるのだが、周作の志は高かった。日本橋・お玉が池に道場「玄武館」を建て、「小野派一刀流「北辰夢想流」」に自らの工夫を加え、ついに「北辰一刀流」を創り上げた。勿論、浅利派の門人も駆けつけ、関東の他流派を破る事により、門弟の数は爆発的に増えていった。彼の合理的な発想により、身分を問わず人材が集まり庶民まで剣術が広がった。また従来からあった免許皆伝までの12段階も3段階(初目録、中目録、大目録皆伝)に簡素化されたのも革新的であった。




 息子の江戸での成功を見ながら、父・忠左衛門は松戸で只ひたすら獣医として仕事に邁進する。後年、浦山寿貞と称し、松戸の馬の名医として惜しまれながら文化6年(1809年)に没した。その墓は、松戸の宝光院にある。

 かつて(命を奪う剣)に背を向け、(命を救う医学)を選んだ父・忠左衛門、それに対し、ひたすら剣に生きた息子・周作。だが確実に、父の想いは息子に伝わっているようだ。北辰一刀流の門下の剣豪は、いづれも活人剣の使い手とよべる人々であった。坂本竜馬、山南敬介、藤堂平助。人をむやみに斬らず、活かす剣であれ。千葉親子の想いは、戦争の続く現代にも通じる事なのだ。

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北辰一刀流玄武館 宗家6世による抜刀

画像は『北辰の剣―千葉周作 開眼 (ノン・ポシェット) 』表紙より
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

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