中華料理店の一家を惨殺したのは意外な人物だった「築地八宝亭一家殺人事件」

 1951年2月22日午前9時、築地の中華料理店「八宝亭」にて店の主人ら一家が惨殺されるという事件が起きた。

 寝具の上には主人とその妻、長男の遺体が、また長女は襖に片手を突っ込み半立ちの状態であった。凶器は薪割りで、いずれの遺体も頭をめちゃくちゃに叩かれ現場は血の海であった。また家からは現金2~3万円と合計24万円の入った預金通帳3冊が盗まれていた。




 第一発見者はこの店に住み込みで見習いとして働いていたYという男。彼は犯行前日である21日の夕方に「女中募集の張り紙を見た」と言って25,6歳で小太り、パーマをかけた女性がやってきて試用のために店に宿泊した事を証言。その後、女性の姿が消えていた事から警察は彼の証言を元に女性のモンタージュ写真を作製した。

 Yは事件の唯一の生き残りとし捜査協力に熱心に応じ、新聞記者らの取材にも好意的に答えていた。当時の朝日新聞には「私の推理」という彼の手記が堂々と掲載された。 

 しかし、次第に彼の元には疑惑の目が向けられるようになっていく。彼は取材に来た各新聞社に「お宅にだけ、どこにも話していない情報を話す」と特ダネを売りつけるなどの行為を見せるようになった。

 3月10日、モンタージュそっくりの女性が発見される。しかしこの女性はYに通帳の預金をおろすように頼まれていただけであった。そう、八宝亭の一家を殺害したのはYだったのである。彼女は銀行の届け出印を持っていなかったため、預金を引き出すことが出来ず、Yを恐れて故郷に逃げていたのである。 




 同日午後5時過ぎ、警察は新聞社の車で知人宅を訪れたYを逮捕。彼は「今は大変疲れているので明日になったら全て話します」と答えたが、翌日の11日未明に築地所内の留置場で隠し持っていた青酸化合物を飲み、自殺してしまった。

 事件の詳細や、なぜ凶行に及んだのかなど、様々な謎は解明されないままとなってしまった。

(田中尚 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)




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