『南総里見八犬伝』のモデルとなった土地「館山城」と「八賢士の墓」

 曲亭馬琴著『南総里見八犬伝』のモデルとして有名な戦国大名、里見氏。その里見氏の最後の居城が館山城(千葉県館山市)である。館山城は慶長19年(1614年)の里見氏改易の際に廃城となり、現在は一帯が城山公園となっている。1982年に再建された模擬天守は「八犬伝博物館」として公開され、内部は文字通り『南総里見八犬伝』の版本や浮世絵、TV人形劇などの資料が豊富に展示されている。正にファンは必見である。この様に館山城は史実と伝奇ロマンが同居するワンダーランドだ。知的好奇心が大いに刺激され、インスピレーション(霊感)を研ぎ澄ますにはもってこいの場所であると言えよう。




 里見氏の安房統治は10代、170年にも及ぶ。彼らは群雄割拠の時代を軍略と政略で乗り切り、小国ながらもしぶとく戦国の終わりまで生き残った一族である。その里見スピリットに触れれば現代競争社会を生き抜くヒントもきっと得られるはず。天守望楼から外を望めば鏡ヶ浦が眼下に広がる。かつて里見氏も見ていたであろう絶景を眺めに館山城を訪れてみてはいかがだろうか。

 里見水軍を擁し、天然の要害である独立丘に守られた館山城。その地は東京湾の入り口に当たり、軍事・商業の重要な拠点だった。そして里見氏は外様大名である。徳川幕府からすれば外様が海上交通の要衝を押さえている事は脅威であり、何としても排除したかったに違いない。里見氏は10代目・忠義(ただよし)の時、言いがかりに等しい罪を着せられ、強引に改易させられてしまう。先祖代々守り通してきた土地を追い出される無念さは、いかばかりであろう。遠く伯耆国佐倉の地(鳥取県)で忠義は失意の内に病没。その側近八人が殉死した。八人の戒名には、みな賢の文字が付けられた為に八賢士と呼ばれる。その遺骨を分骨したものが館山城址の「八賢士の墓(八遺臣の墓)」である。




 彼ら八賢士こそが『南総里見八犬伝』の「八犬士」のモデルであると言われている。善政を敷き領民に慕われるも非業の死を遂げた里見氏と八賢士。逆に『南総里見八犬伝』では八犬士の活躍による里見氏の勝利と栄達が語られる。馬琴はその勧善懲悪のストーリーに里見氏鎮魂の想いを込めたに違いない。館山城を訪れた際には是非とも立ち寄って頂きたい。

(田中尚 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

※画像 館山市『城山公園・館山城パンフレット』より

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